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2011年3月

震災ボランティアの経験者として(3)~「がんばろう日本」について、など~

 【「がんばろう日本」について】

 誰に向かって言っているのだろうか?

 今回の地震で被災した人たちに向かって言っているのだとしたら、あまりにも無神経だと思う。

 家をなくし、家族を失い、放射能におびえ、生まれ育った土地を離れざるをえない人たちの気持ちをきちんと受け止めようとする気があるのだろうか?

 こんな標語を垂れ流すマスコミの罪は大きい。

 

【寄付行為について】

寄付先を慎重に選ぶことを勧める。

多くの方は、日本赤十字社などメジャーな団体に寄付をしているようだが、今回の被災地は相当に広く、支援すべき内容も多岐にわたる。大きな団体といえど、そうそう対応を一手に引き受けられるか、疑問である。

毛細血管のように現地できめ細かく被災者をサポートする団体は数多くある。そんな団体を寄付先の候補に挙げてもよいように思う。もっとも、そんな団体こそ広報活動にエネルギーを割けず、PR不足になりがちなのだが。

寄付する側が、単に寄付をして終わりというのではなく、寄付したお金がどう使われるのか、まで注意して寄付をする必要があるように思う。

個人的には、もう少し様子を見て、寄付先を決めようと思っている。

 

【ボランティア活動について】

 本来なら、多くの一般ボランティアの方がすでに現地に入っていておかしくない時期だ。道路の寸断や、ガソリンの不足、原発事故の後処理のまずさ、などのために、思っていた以上に現地入りが進んでいない。

 限られた情報を耳にする限りでは、今はまだ専門職の方が現地入りする時期であり、一般のボランティアが入るのはもう少し待った方がよさそうだ。

 阪神淡路の時は、すぐ近くの大阪が無事だったこともあるだろう。物資不足はこれほど長引かなかった。私が神戸に行った震災1ヶ月後などは、お金を現地になるべく落としてほしいから、なるべく現地で多く買い物をしてくれと言われたぐらいだ。今回の被災地に関しては、そこまで回復するのに1ヶ月ではすまなさそうだ。

 被災地にもいろいろあると思うが、基本的には、今はまだ医師など専門職の方に頼る部分が大きいと思う。特に手に職のない人間の出番は、もう少し先だ。この震災の復興は、かなりの長期戦になるだろう。半年や1年で済むとは思えない。被災地に送る物資の仕分けをするといった後方支援も立派なボランティア活動だ。

 個人的には、日本中が狂奔している時こそ、冷静に事態の推移を見ていたいと思う

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震災ボランティアの経験者として(2)~阪神淡路大震災との違いについて~

【阪神淡路大震災との違い】

 今回の地震と阪神淡路大震災の違いは、大きく言って2つある。

1)被災地の範囲が広いこと

2)津波と原発の被害も併発していること

 1)について。

 阪神淡路の際、私が神戸に入った時は、もっぱら徒歩で動いた。自転車も使いたかったが、道路にいろいろ物が落ちているためパンクの可能性が高く、あまり使わなかった。クルマはあまり使われていなかったように思う。顔を出していたボランティア団体の事情的には、入り組んだ路地を巡るのにかえって邪魔だったのではないかと思う。一般的な意味でも、まだ道路の陥没等があって安心して運転できる状況ではなかったように思う。徒歩で動ける範囲と言うのは本当にせまく、せいぜい半径2~3kmだったように思う。

 今回の被災地は、東北地方の太平洋岸500km(厳密に房総半島まで入れればもっと)とのこと。ガソリン供給に問題があり、かつ主要国道が寸断されてクルマが使えない現状においては、とても一度に回れる距離ではない。

 仮にクルマが使えたとしても、リアス式海岸という地形を考える必要がある。私は三陸地方に行ったことはないが、同じリアス式海岸の紀伊半島南部には行ったことがある。リアス式海岸というのは、同じ海岸線の隣町に行くのに、山をひとつ越えなければいけない(クルマが発達する前は、陸路より海路を取っていたのではなかろうか)。要するに、陸路と言う面では、そもそも各市町村が連携を取りにくい性格を持っているように思う(現地に行ったことがないのであくまでも推測である)。

 人的・物的な支援に関しては、長大なエリアであっても各地に個別性の高い支援が必要になることは変わらないため、復興には阪神淡路以上の相当な労力が必要となるだろうということが十分推測できる。

 

 2)について。

 津波と比較するのもどうかと思うが、私には床上浸水の経験がある。

 スネの中ほどまで水位が上がってきていたので、たぶん床上10cmはあったかと思う。1993年、大学3年の時だ。水が上がってきた時はただただ夢中で、大事なものを押し入れの上段に投げ込み、間に合わなかったものが水没するのを茫然と見ていた。大変だったのは水が引いた後だった。幸い被害地域が限定的だったので、役所や保健所の保護があり、畳の入れ替えや家の中の消毒などはしてもらった。とは言っても、泥水にいったん浸かったものというのは使い物にならず、また不衛生なため、ほとんどの品を捨てる必要があった。保険会社への申請なども行わねばならず、気の重い思いをした記憶がある。

 今回の地震で、10cmどころではなく10m以上の津波に遭った地域は、テレビでも放映されたとおり家屋が押し流されており、根本的に私の床上浸水とはレベルの違いがあるのだが、街全体が泥水の臭気に包まれる中、使い物にならなくなったもの一点一点を拾い上げながら処分する作業は非常に気の重いことだと思う。

 今回の地震については、保険はどこまできくのだろうか。行政機能が失われた地区などは、再建はどう行っていくのだろうか。見当がつかない分、被害に遭った方の心理的負担は大きいように思う。

 

 原発事故については、今回の地震の復旧作業にあたっての最大のネックになったように思う。

 東北各県の県庁所在地が軒並み被災したため、復旧支援の拠点は首都圏となる。その首都圏から見た場合、放射能という見えない難関が被災地の入口に立ちはだかっているようなものだ。

 震災後1週間たってもいまだに支援者の現地入りが進まないというのは、単に道路の復旧がまだとかガソリンが不十分とかいう問題以前に、放射能に対する恐怖心が先にたっている面が大きいと思う。実際、原発事故のテレビニュースをのべつまくなしに見ていると、風向きによっては東京にいる自分も被爆しているような錯覚にさえ陥ってしまう。

 この事故をもってヨーロッパ各国などは原発推進を見直す動きがあるそうだが、日本もおおいに見直した方がいいと思う。できれば、電気はどこまで必要なのか、という根本的なところから問い直した方がいいように思う。

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震災ボランティアの経験者として(1)~疲れについて~

 東日本地震の発生から1週間がたった。
 以下、流言飛語の類にならないよう、注意しながら述べていきたい。

【疲れ】
 震災直後の1~2日は精神的高揚が続くが、3日もたつと最初の疲れのピークが訪れる。
 1週間たつと、だいぶ周りも見えてくる。その反面、できることが限られ続けることへのいら立ちが蓄積し、二度目の疲れのピークが来る。
 1ヶ月たつと、被災者と非被災者、あるいは被災者間のダメージの違いが顕著になり、三度目の疲れのピークが来る。

 私は、1995年の阪神淡路大震災の1ヶ月後に神戸市の東灘区を訪れた。ボランティア活動というにはあまりにおこがましいが、それでも2泊3日の間区役所に寝泊まりし、近くのボランティア団体に顔を出し、医薬品の運搬などを手伝った。

 その経験から、上記のような3つの疲れのピークがあるように感じている。今回の地震については、避難所に寝泊まりしている方にとっては難しいことかもしれないが、少なくとも首都圏ほか各地の直接の被害を受けていない方々については、精神的・肉体的な疲れを取り除くよう、自ら強く意識することを勧めたい。

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地震レポート

 地震があったのは一昨日、2011年3月11日(金)の14時過ぎだったと思う。

 通常どおりであれば、東京都新宿区内の雑居ビル9Fにいるところだが、作業の関係で4Fに他のスタッフと滞在中だった。

 もともと古いビルのため、これまでも震度1や2でもよく揺れていたが、揺れが長くかつ激しかったので、4F作業場にいたスタッフ皆に呼びかけ、1階まで下り、ビル外へ退避。退避途中に実家(山口県)に携帯電話をかけた。何度か試みた後通じた。母はまだニュースを聞いてなかったようだった。取り急ぎ、無事であることのみを報告し、すぐに切った。

 余震が続く中、隣の駐車場で、9Fに残っていた他のスタッフとも合流できた。携帯電話のインターネット情報で、震源地が三陸沖で、マグニチュードが7.8(後刻8.8に訂正された)というかなり大きな地震であることを知った。近くのコンビニで、目についたパンや飲み物を購入した。まだ飲食料の確保に走る人は少なかったため、余裕をもって買えた。

 余震がやや収まりかけた頃を見計り、各フロアのエレベータ扉をノックしながら9Fまで上り、反応がない(閉じ込められた人がいない)ことを確認し、10Fに戻っていた大家に報告。9Fの職場を覗いたところ、書類が散乱し、文字どおり足の踏み場がなくなっていた。ただガラス等割れ物はほとんどなく、後の整理が大変なだけで実害としては見た目ほど大きくなさそうに感じた。

 16時頃、寒くなり始めたのでいったん職場ビル内に戻った。9Fは収拾がつかなくなっているため、4Fの作業場にスタッフ全員集合。

 幸い、電気・水道に異常がなかったので、電灯や暖房、トイレが使えたのは助かった。続けられる作業(印刷)は続けた。電話は、携帯がほとんどつながらず、固定が少しだけつながった。情報収集はもっぱら携帯電話のワンセグTVや、無線を通じたPCインターネットに頼った。ただし情報内容としては、整理がつかないまま時がたっていった。

 印刷作業は21時過ぎに終わり、帰宅しなかった6人で手分けして帳合・ホッチキス止めを行い、冊子を作成した。作業をひととおり終わらせたのが22時頃だったと思う。

 事務局長の判断により、女性スタッフ4人は最寄りの避難所に退避することになった。私はそれに付き添い、まずは新宿区役所に向かった。区役所はすでにいっぱいだったようで、「帰宅困難者の避難場所」と書かれた地図をもらい、新宿文化センターに改めて向かった。新宿文化センターでは板の間ではあるものの、横になれるスペースを確保できたので、女性4人はそこでひと晩を過ごすことにし、私は帰宅することにした。

 念のため最寄りの都営地下鉄の駅まで戻ってみると、ちょうど運行を再開し始めたところだったので、乗車して帰ることができた。これまでもしばしば歩いて帰ったことがあるので、道順もかかる時間も不安はなかったが、なんだかんだで体は疲れており、地下鉄に乗れて、助かった。

 家の近くの大きな通りは、大渋滞を起こしており、ほとんど車は動いていなかった。日付が変わる時刻だったが、歩いて帰る人の姿が多く、押し黙るかやけにはしゃぐかどちらか極端だった。まだ開いている飲食店は、客が立って待つほど混雑しており、とても入れる感じではなかった。開いてない店も、食材がなくなった旨の貼り紙があり、食の確保は相当難しい様子だった。コンビニもほとんど棚から食料が消えていた。かろうじてカロリーメイトが確保できたので、それを買って帰った。

 自室は、2部屋あるうち、ふとんを敷いていた部屋はほとんど無傷だった。もうひと部屋は、壁3面の本棚が全部中央に倒れており、手がつけられない状況だった。パソコンを置いていた机も傾いていたが、パソコンはクッション性の高い椅子に倒れかかっており、無傷だった。

 自室も電気や水道が使えたので安心した。寝るスペースだけは確保し、電灯をつけっぱなしにしてふとんの上で寝ることができた。

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